ヒューマノイド歴20年のプロフェッショナルが 「ロボット体験操縦100万人」を目指す理由

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岡本正行(おかもと まさゆき)プロフィール
株式会社MANOI企画代表取締役/ロボットゆうえんち代表。京商株式会社在籍時にヒューマノイドロボット「MANOI」シリーズを手掛け、独立後はロボットを専門に扱う株式会社MANOI企画を立ち上げた。現在は各種ロボットのプロデュースや子供向けのロボット関連イベント主催・運営に加え、ロボットやモノづくりについて大学で教鞭を振るうなど広範にわたり活躍中。「ロボット業界の大道芸人として、子供たちにモノ作りや科学の楽しさを伝える」ことが自身のテーマ。

1970年3月15日、日本で初めての万国博覧会が大阪吹田市の千里丘陵で開幕した。モノレール、テレビ電話、ドーム状のスクリーンに映し出される巨大映画アストロラマ、動く歩道、電気自動車……。未来に湧く会場のニュースにメディアは連日お祭り騒ぎ。大阪から遠く400km離れた東京にも、一人白黒テレビにかじりつく少年がいた。ブラウン管の向こうに映し出された、ブリキの体に丸い目を持つヒト型ロボット。その姿はあまりに衝撃的だった。それから50年。かつての少年は、今、子供たちのためにロボットを作っている。

ロボットを作り、語り、伝える

各種ロボットの総合プロデュースや、ロボット関連イベントの主催・運営、ロボットやモノづくりにまつわる講演、プログラミング教室や工作教室の講師−−ロボットを作り、語り、伝えるというマルチな顔を持つ岡本正行氏は、20年来ロボット業界に携わり続ける業界のキーパーソンである。サラリーマン時代にヒューマノイドロボットを手掛けたことをきっかけに、ロボット街道一筋の人生を送ってきた。

かつて大阪万博の中継で4才の岡本少年を魅了したのは、昭和のロボット博士と呼ばれた故・相澤次郎氏が作ったヒト型ロボットだった。身長2mもあろうかという相澤ロボットだったが、“彼”に出来たのは手にしたポラロイドのシャッターを切る程度。それでもその姿は、岡本氏にとっては驚きだった。「もう、単純にすげえ!と。あのときの経験が無かったら、今ロボットを作っていませんね」

“昭和のロボット博士”とも言われる故・相澤次郎氏によって製作された「相澤ロボット」。写真は、先立って遺族の自宅から新たに発見された15体のロボット楽団。製作から50年ほど経過しているため状態が思わしくなく、ロボットゆうえんちは現在修復に向けて動きだしている。

高校卒業後に長距離トラックのドライバーなどをしていた岡本氏は、20代前半に生まれ育った地元・東京厚木市の模型メーカー「京商」の求人に出会い、就職を決意する。おもちゃが好きだったし、何より子供が好きだった。当時の京商はラジコンカーに加えてダイキャストモデルの製造販売もスタートし、F1チームのスポンサーになるなど日の出の勢い。岡本氏は「倉庫番から始まって、工場、生産管理、アフターサービス、開発、海外営業まで」、ありとあらゆる部門を渡り歩いた。「行っていないのは経理部くらいです(笑)」 目の回るような毎日だったが、おもちゃメーカーのサラリーマンの傍ら、少年時代からのロボット趣味は続いていた。秋葉原に通っては部品を手に入れ、仲間とロボットを手作りしてもいたという。

自ら手掛けた初めてのヒューマノイドロボット

入社して10年ほど経ったある日、岡本氏は社長から呼び出しを受ける。2000年頃の京商は、ラジコン、ミニチュアカーに続く新規の事業としてロボットに着目。ロボットの商品化プロジェクトが決定するやいなや、岡本氏がリーダーとして選出されたのだ。企画から開発、販売まで業務を広く見渡すことの出来る“目”を持つ、大のロボット好き。彼ほどの適任者は、きっと社内のどこを探しても見つからなかったろう。

プロジェクトは全くの白紙からスタート。どんなロボットなら売れるだろうかと悩み考えた先に行き着いたのが、可愛らしい顔をしたヒト型ロボットだった。当時の日本ではアニメの影響などもあり、ロボット=二足歩行というイメージが強かった。そこで岡本氏は「ペットのような家族」という位置付けで、親しみを持ってもらえるロボット作りを始動させる。

そして2007年、二足歩行ロボット「マノイ PF01 先行販売特別モデル」が発売された。17個のアクチュエータと傾き検知用のジャイロセンサーを持つマノイは、100点以上の部品を組み立てるキットとして提供し、タッチセンサーや人感センサー、簡易マイク、音声ボードといった拡張機能もオプションとして用意。約20万円と高価だったが、作った300体は見事完売した。ユーザーがロボットに動作を入力するなど、ロボットを通じて工学を学ぶことが出来る教育的側面を持つ一方で、見た目や動きは愛嬌たっぷり。その親しみやすさこそが、マノイが大きな話題を呼んだ秘訣であった。アンドロイドのようにリアルを追求するのではなく、「ヒューマノイドロボットには愛嬌や親しみやすさこそが必要」、という岡本氏の信念は今現在も変わっていない。

岡本氏が京商時代に販売したマノイ=MANOI。「huMANOId」‥“hu”と“d”の間から抜き出した5文字で構成する名前には、人間と機械の間、という意味も含まれるそう。

マノイの好調でロボット事業も波に乗るかと思われたが、リーマンショックの影響でプロジェクトは中断に追いやられる。「元の事業部に専念するように言われましたが、一度やりだしたらロボットは楽しくて、もう他のことは考えられなかった」 2009年、岡本氏はマノイの使用権利を京商から得て独立し、ロボットゆうえんちを設立することとなる。

何故ヒューマノイドロボットにこだわるのか

京商時代のマノイをはじめ、岡本氏がこれまで手掛けてきたモデルはほとんどがヒューマノイドロボットだ。しかし、ロボットを単に道具として捉えるなら、必ずしもヒト型である必要はないだろう。「例えば、お手伝いロボットが家の中に入ってきて家事をするよりは、洗濯機や掃除機など、各家電自体にロボティクステクノロジーを搭載したほうが楽だし、コストも抑えられます」 しかし、若い頃、共にロボット趣味で交流した仲間たちは皆、自作のロボットに名前をつけて呼んでいた。彼らにとってロボットは機械以上の何かであり、家族や友人の一員となり得る存在だったのである。「ロボットが我々の仲間なのだとしたら、ヒト型以外にはあり得ない。そう思いました。ヒト型ロボット、それはやっぱり人類すべての夢なんじゃないでしょうか。どんなロボット関係者も、一度は必ずそれを作りたいと願う」

会社を立ち上げた頃、あるメディアが取材に訪れたという。何を作りたいか、そう聞かれた岡本氏は、紅白歌合戦に出るロボットと、東京五輪で聖火ランナーを務めるロボットを作ると答えた。「その記者の方に、笑われました」 しかし、それから12年、岡本氏の作るヒューマノイドは時速4kmで数kmの距離を歩くことが出来るようになった。紅白にこそ出ていないが、オリジナル曲を歌って踊るロボットアイドルユニットも結成した。さらに、間もなくもう一つの目標も完遂しようとしている。

「出来るだけ多くの方に、子供のうちに少なくとも1回はロボットに触ってもらおうと考え、“ロボット体験操縦100万人”という目標を掲げました」 かつてブラウン管の向こうに見た夢は、いつしか自分の一生の仕事になった。だから、今度は自分が子供たちに夢を見せる番なのだと岡本氏は言う。「昭和の時代に先達が僕らにやってくれたことを、僕は次の世代に向けてやっているだけなんです」

次世代エンジニアのための環境を作る

岡本氏がロボットに関わり始めた頃は、世界に誇れるロボット先進国だった日本。ところが今は海外もかなりの勢いで教育に力を入れている。「中国は教材も豊富で、クラスに一体ロボットがいる学校なんかもあるんです」 しかし、依然としてヒューマノイドロボット領域では日本の技術がトップクラスにあるのも事実、岡本氏はそう続ける。「ボストンダイナミクスやテスラなどが話題になっていますが、川崎重工のKaleido(カレイド)も実用的で親しみやすさがありますよね。」 ヒューマノイドはきっと日本が引っ張っていく。そう期待しているからこそ、次世代のための環境を整えるのは自らの役目だと認識している。

川崎重工のヒューマノイドロボット「Kaleido(カレイド)」

「どんなロボット関係者も、必ず一度は作りたいと考えるのがヒューマノイドロボット」と断言する岡本氏は、川崎重工が作るkaleidoは夢そのものだと語った。

「例えばKaleidoが集まった川崎重工パークみたいなものが出来たらいいですよね。ヒト型だからかけっこや懸垂とか、人間と競争も出来る。そうしたら将来ロボットの開発部門に就職したいという子供も増えるんじゃないでしょうか」 まだまだ未知の可能性が眠るロボットの大海へ、子供達を誘う水先案内人、岡本正行。その見つめる先はいつも楽しげで、とても明るい。